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土屋武之の執筆作品

このページでは、土屋が執筆し、雑誌に掲載した記事の一部をご紹介します。

 

伊予鉄道(『週刊鉄道データファイル』No.91に掲載)

「坊っちゃん列車」をルーツとする歴史を持ち
市内線と郊外線に分かれた複雑な路線網を経営

伊予鉄道は明治21(1888)年開業という歴史がある鉄道会社である。たび重なる路線変更や改軌、電化、複線化により近代的な都市路線に生まれ変わり、軽便鉄道時代の面影はほとんど残っていないが、松山の市内、近郊輸送を担うその様は今も昔も変わらない。

軌間762mmの軽便鉄道として開業
神戸以西では最初の鉄道となる

 現在の伊予鉄道の路線は、「郊外線」と通称される大型の鉄道タイプの車両が走る路線と、「市内線」と通称される路面電車タイプの車両が走る路線に大別される。郊外線は高浜線(松山市〜高浜間・9.4km)、横河原線(松山市〜横河原間・13.2km)、郡中線(松山市〜郡中港間・11.3km)の3線(計33.9km)から成る。
 一方、市内線は全線9.6kmながらも線区名称は複雑で、城南線(道後温泉〜大街道〜西堀端〜本町四丁目間および上一万〜平和通一丁目間)、本町線(本町四丁目〜本町六丁目間)、大手町線(西堀端〜松山駅前〜古町間)、花園線(松山市駅前〜南堀端間)、城北線(古町〜平和通一丁目間)となっている。このうち、城北線は旧・鉄道法に基づく「鉄道」区間であり、単線・自動閉塞信号が採用されている。通常ならば「軌道線」と称されるところが、そうはならない所以である。このような姿となったのは、約120年にも及ぶ、長い歴史を経てきているからにほかならない。
伊予鉄道で最初に開業した区間にある、三津駅 現在の伊予鉄道(会社としては二代目)の最初の営業区間は、初代伊予鉄道の手により開業し、「日本で最初の軽便鉄道」として知られている松山(のち、外側を経て、現・松山市)〜三津である。松山は江戸時代初期から城下町として栄え、道後温泉は日本書紀の時代から広く知られていた。ただ、位置的には内陸部にあるため、外港として使われてきたのが三津浜港である。明治維新ののちは、瀬戸内海の汽船航路が発達し、三津浜港も寄港地として賑わっていた。しかし松山へは未整備の街道を辿るしかなく、大阪〜三津浜より三津浜〜松山の方が貨物の輸送費が高くつく有様であったと言われる。
 この矛盾した状態を打開すべく、鉄道の建設を決意したのが地元の実業家小林信近であった。小林は明治17(1884)年頃、ヨーロッパの農場・工事用簡易軌道について知ったといわれ、それを松山〜三津間という小規模な鉄道に応用することを思いついた。さっそく明治19(1886)年、鉄道局に建設を出願したが、当時はまだ日本鉄道(現・JR東北本線など)、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)しか私設鉄道はなく、建設のための統一的な法令もない状態であった。しかし小林らの熱意により免許は下付され、翌年、「伊予鉄道」を設立。軌間762mmの「軽便鉄道」の建設が始まった。工事は順調に進み、明治21(1888)年10月28日に無事開業を迎えた。まだ東海道本線すら全通していない頃の話である。
 この開業は、山陽鉄道(現・JR山陽本線など)や九州鉄道(現・JR鹿児島本線など)よりわずかに先んずることになり、四国ではもちろん、神戸以西における初めての鉄道ともなった。もちろん、現在のJR予讃線は影も形も無く、官設鉄道が松山に達したのはそれから約40年ものちの昭和2(1927)年のことである。
 伊予鉄道の貨客は多く、明治22(1889)年当時で、旅客列車が1時間毎に運転されるという、当時の軽便蒸気鉄道としては破格の頻度であったほどである。これを受けて事業拡大に乗り出し、明治25年(1892)年には三津〜高浜間が延長開業している。横河原方面への延長は経営の足かせになることが危ぶまれたが、地元からの請願、株式引受けの申し出を受ける形で行なわれ、明治26(1893)年に松山〜平井河原間(現・平井)、明治32(1899)年には平井河原〜横河原間が開業。現在の横河原線が形作られている。その他、明治29(1896)年には森松線・立花(現・伊予立花)〜森松間も開業した。

松山近郊に軽便鉄道の建設が相次ぎ
ライバル会社間の競合が激化する

 伊予鉄道の成功に触発され、松山を中心とする地域には次々と新しい軽便鉄道が建設された。道後鉄道は松山市街と道後温泉を結ぶ鉄道で、明治25(1982)年に伊予鉄道と接続する古町から道後までと、中心部の一番町(現・大街道付近)から道後までの2路線を出願。免許を受け、明治28(1895)年8月22日に同時に開業している。やはり軌間762mmの軽便蒸気鉄道である。古町〜道後(現・道後温泉)間は現在の城北線の原形で、同線が「鉄道」であるのはそのためだが、現在とは経由地が異なり、ずっと北側を通っていた。一番町〜道後も今の城南線とは別ルートであった。
開業当時の列車を復元した「坊っちゃん列車」 ちょうどこの頃の明治28(1895)年4月。旧制中学の教師として松山に赴任してきたのが夏目漱石である。「坊っちゃん」の一節にこんな下りがある。
 「乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分ばかり動いたと思ったら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思った。たった三銭である」
 これは、三津浜に上陸した漱石が、松山まで伊予鉄道に乗った時の情景が下敷きにある。ただし、開業当初の三津〜松山の所要時間は28分、運賃は3銭5厘なので、かなり創作が入っているといえよう。また、道後温泉(作中では架空の「住田の温泉」)へ通う汽車の情景も描かれているが、これは漱石の松山在任中に開業した道後鉄道で、作中のヒロイン「マドンナ」と初めて出会った駅は一番町がモデルだと思われる。
 見過ごされがちだが、当時、松山ほど鉄道が発達した地方都市はほかになく、「田舎」と軽蔑した「坊っちゃん」の筆致とは裏腹に、漱石自身はそのモダンぶりに興味を覚えたのであろう。ともあれ、明治39(1906)年に発表され、大ベストセラーとなった「坊っちゃん」により、松山の軽便鉄道は一躍有名となった。その蒸気列車は現在に至るまで「坊っちゃん列車」と呼ばれることになり、伊予鉄道の代名詞ともなるのである。
 さて、松山を巡る鉄道の情勢は、この頃からきな臭さを増してくる。伊予鉄道は郡中(現在の伊予市)方面への路線延長計画も持っていた。しかし沿線の有力者との交渉は不調に終わり、逆に郡中側の資本による南予鉄道の設立を見る。この鉄道は伊予鉄道松山に隣接する藤原を起点に郡中に至る路線を建設。明治29(1896)年7月4日に開業している。こうして、松山市内には3社が乱立する事態となり、当然、合併話が浮上してきた。しかし、利害関係や政治的な対立がからんで話はまとまらず。結局、南予鉄道社長の古畑寅造が伊予、道後鉄道の株の大半を買収することによって、合併に持ち込んだ。形の上では明治33(1900)年、伊予鉄道が道後、南予鉄道を吸収している。
 統合の成った伊予鉄道が乗り出したのが、明治14(1881)年から計画があった、高浜港の建設である。元々、三津浜は河口港で、明治後期には大型化が進んだ汽船の入港が次第に困難となってきていた。高浜開港は明治39(1906)年で、同時に山陽鉄道との連絡航路・神戸〜多度津〜高浜間、宇品〜呉〜高浜間も開かれた。
 これにより打撃を被ったのが三津浜である。そこで退勢を挽回すべく港の改良に取り組むとともに、「敵に回った」伊予鉄道に対抗して、当時、勃興期を迎えていた電気軌道を三津〜松山間に建設しようと目論む。阪神電気鉄道の例のように、既存の鉄道があっても、「軌道」ならば所管官庁の違いもあって許可されると踏んだのであった。
 目論みは当たり、松山電気軌道に対して明治39(1906)年に特許が下りた。建設ルートは三津浜の中心・江ノ口から、古町に近い萱町までほぼ伊予鉄道に並行。本町(現・本町四丁目付近)を経て、西堀端、南堀端、一番町と松山の中心部を通り、さらに六角堂、上一万を経て道後に至るというもの。軌間は1435mmを採用。「坊っちゃん列車」ではとても敵わない最新式軌道である。
 仰天したのは伊予鉄道であった。急ぎ対抗策として、旧・道後鉄道線区間の1067mmへの改軌と電化を計画し、突貫工事を行った。松山電気軌道の住吉〜本町、札ノ辻(現・本町三丁目付近)〜道後の開業が明治44(1911)年9月1日、全通が翌年3月9日であったのに対し、伊予鉄道側の改軌、電化開業は明治44(1911)年8月8日と、きわどく勝利している。
伊予鉄道郊外線の新型車両610系 両社の競争は激烈を極めたといい、監督官庁も手を焼いた。この間、大正5(1916)年には伊予鉄道は伊予水力電気を合併して、伊予鉄道電気と改称し、経営体力を強化している。結局、先に音を上げたのは新参で、資金に乏しかった松山電気軌道の方であった。大正10(1921)年、ついに伊予鉄道電気に吸収合併されることで落着。ただ、再び松山の鉄道事業を独占することに成功したものの、同社もいつまでも軽便蒸気鉄道のままでは時代の流れに取り残されることを悟り、以後、積極的に近代化を進めることになる。

改軌電化が進み近代的鉄道に脱皮
戦後復興の中で路線網が完成する

 旧・松山電気軌道線のうち、合併後、一番町〜道後間は休止されたが、江ノ口〜一番町は大正12(1923)年に1067mmに改軌され、旧・道後鉄道線と接続した。大正15(1926)年には、逆に旧・道後鉄道線の一番町〜道後間を廃止。旧・松山電気軌道線の一番町〜道後間を勝山町を経由するルートに変更して、全線を電気軌道として整備した。本町〜道後は、現在の城南線にほかならない。なお、廃止区間の一部は道路に転用され、今でも跡をたどることができる。
 翌昭和2(1927)年の讃予線(現・JR予讃線)の松山開業を受けて、伊予鉄道電気では連絡のために同年、古町〜松山駅前間を建設。国鉄や高浜線と平行する軌道の江ノ口〜萱町間を廃止している。また、城北線(旧・道後鉄道線)の木屋町〜道後間が全面的に移設され、現在のルートとなった。道後温泉駅構内の電車留置線は、この時の廃止区間の名残である。
 旧・松山電気軌道線に代わっては、高浜線を高速電気鉄道として整備することとなり、1067mmへの改軌、電化が行われた。完成は昭和6(1931)年5月で、翌年には複線化も完了している。残る横河原、森松線は昭和6(1931)年10月、郡中線は昭和12(1937)年7月にやはり改軌され、伊予鉄道電気から762mm軌間が消滅した。これらの線は非電化のままであった。また、昭和4(1929)年に軌道線の萱町〜古町間、昭和11(1936)年には同じく西堀端〜松山駅前間、昭和14(1939)年には郡中〜郡中港間が開業している。
 戦時中の電力統制令で電気事業を手放したのをきっかけに、会社組織を改め、昭和17(1942)年、社名を再度、伊予鉄道とした。空襲の被害も大きかったが、非電化区間を抱えるがゆえの、戦後の石炭不足はなお深刻であった。打開策として、乏しい資材を何とか調達し、群中線を昭和25(1950)年に電化した。間もなく、燃料事情が好転したため横河原、森松線はディーゼル化を進めることとなり、昭和29(1954)年に無煙化を達成している。
超低床式で乗り降りしやすい、市内線用の2100型電車 市内線の方は、戦後の都市整備計画との関係で再び改廃が行われている。昭和22(1947)年に南堀端〜松山市駅前間の花園線が開通。昭和32(1957)年には旧・松山電気軌道線の古町〜本町間が廃止された。最後が昭和37(1962)年開業の本町線で、本町四丁目〜本町六丁目間が建設されている。
 郊外線は、どこでも変わらないモータリゼーションにさらされ、短小路線であった森松線は乗客の減少によって、昭和40(1965)年11月30日限りで廃止されている。しかし横河原線は逆に強化策が取られ、昭和42(1967)年に電化されて、高浜、郡中線と並ぶ電気鉄道となった。

(後略)